歌物語180
一歩も踏み出せぬまま、風が流れ、川が流れ、一生が流れ、ぼくらのつまらない演歌が、波音や車の音に混じって聞こえてくる。このままなるようになるさと、誰かの代わりに、また明日を夢見るような歌の続きを書き続ける君へ。
夕焼け空道はいずこに続くらんチョコレート、グリコそのまま帰る
■註■短歌○ユウヤケゾラ ミチハイズコニ ツヅクラン チョコレート、グリコ ソノママカエル
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一歩も踏み出せぬまま、風が流れ、川が流れ、一生が流れ、ぼくらのつまらない演歌が、波音や車の音に混じって聞こえてくる。このままなるようになるさと、誰かの代わりに、また明日を夢見るような歌の続きを書き続ける君へ。
夕焼け空道はいずこに続くらんチョコレート、グリコそのまま帰る
■註■短歌○ユウヤケゾラ ミチハイズコニ ツヅクラン チョコレート、グリコ ソノママカエル
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自殺したAV女優のDVDをパソコンで見た。彼女が最後に微笑して終わるラストシーンのクローズアップされた瞳の奥の銀河を渡る夜行列車にオレも乗って、缶ビール片手にかっぱえびせんをかじっていた。次の停車駅を訪ねても車掌は愛想笑いするだけで何も教えてはくれない。ボックス席に一緒に座っていたはずの吉田も丸山もどこかに行ってしまった。オレは大きなくしゃみをして、宇宙にも花粉症があるのかと納得しながら、髭を二日間剃ってないことを気にしている。
無人駅穴山を過ぎうたた寝の最終列車は星に近づく
■註■短歌○ムジンエキ アナヤマヲスギ ウタタネノ サイシュウレッシャハ ホシニチカヅク
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オレの中でいまだ決着のつかないことどもが、先に抜けた奴らへの恨みや悲しみと一緒になって騒立つ夜明け。表に出れば向こうの空に糸くずのような月がかすかに残っている。
沈まざる日輪を背に疾駆する幻のわが大陸鉄道
■註■短歌○シズマザル ニチリンヲセニ シックスル マボロシノ ワガタイリクテツドウ
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邪悪なるわが心底をあやし、なだめ、封じ込め、人に悟られぬようによろいつつ、人に紛れて飲むマクドナルドの100円コーヒー。
眠り鮫潜める闇の底いよりあまた泡の生まれ出でたる
■註■
短歌○ネムリザメ ヒソメルヤミノ ソコイヨリ アマタミナワノ ウマレイデタル
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穴のあいた自転車のチューブ、錆びたボルト、剥がれた靴底、ひび割れたプラスチックの筆箱、ぼろぼろの電気カミソリ、虹色のDVD、空をうつす水溜まりに漬かった段ボール。
くたびれた学生鞄放り投げ寝転べば空があるばかりなり
■註■
短歌○クタビレシ ガクセイカバン ホウリナゲ ネコロベバソラガ アルバカリナリ
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ヒトという不条理な皮袋が東京都推奨の45リットルのポリ袋にいくつも詰め込まれて、街外れの集積所に捨てられていた。
新大陸発見記書き継ぐそのペン先の凝りたる血よ
■註■
短歌○シンタイリクハッケンキカキツグソノペンサキノコゴリタルチヨ
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夕暮れ、貧しい食事を済ませて、僕らはエルドラドの夢を見る。先に行った兄からまだ知らせは来ない。
仙人掌の赤き蕾を頬張れる少年は見たり黄金の街
■註■短歌○サボテンノ アカキツボミヲ ホオバレル ショウネンハミタリ オウゴンノマチ
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見知らぬ風景や人々。俺はその人々と一緒になって何事かしきりに叫んでいる。俺はコロシアムの聴衆であったようにも思えるし、デモの群衆であったような気もする。不分明な輝ける記憶。胃の上部が鈍く痛み続ける。一体だれの夢に紛れ込んでしまったのか。
脚折れの黒き栗毛の純血馬の禍々しき世をひとりかも寝む
■註■短歌○アシオレノ クロキクリゲノ ジュンケツバノ マガマガシキヨヲ ヒトリカモネン
・ 本歌=あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜を一人かも寝む(柿本人麻呂)
・ 「脚折れの黒き栗毛の純血馬の」は「禍々しき」を導き出す序詞。
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水の流るる音を聞きつつ待たむ。出立の不意の訪ひ。今、わが短歌を語らむとせば。
夜をこめて聴く幻想組曲 立ちのぼれ言霊の国家
■註■短歌○ヨヲコメテキク ゲンソウクミキョク タチノボレ コトダマノポリティア
・ 夜をこめて=まだ夜が明けないうちに。
○遅ればせながら明けましておめでとうございます。
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何ひとつ予定通りにはいかないが、何とかやっています。明日は遠く、懐かしい…、誰かがそんな風に言ってましたよね。降り出した雨に濡れながら、ハードデスク付きのプレーヤーで、古いフォーク・ソングを聞いてます。
屋台の蕎麦啜りつつ鼻啜りつつ身を抜けて行くかなしみはある
■註■短歌○ヤタイノソバススリツツ ハナススリツツ ミヲヌケテユク カナシミハアル
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小学生の頃、宝屋うどん店が、ろくに客も入らないのに、なぜつぶれないのか、みんなで不思議がったものであった。店は汚らしく、暖簾もすすけている。興味はあるのだが、誰もそこでうどんを食べる勇気のあるものはいなかった。先日、久しぶりに行ってみると、なんと、店は元のままで、まだ営業しているようであった。中を覗いてみると、若いかみさんが、愛想よく大きな声でいらっしゃいと返事した。
闇一つ封じ込めたる慳貪に化けゆく前の天麩羅饂飩
■註■短歌○ヤミヒトツ フウジコメタル ケンドンニ バケユクマエノ テンプラウドン
・ 慳貪=慳貪箱。蕎麦などを入れて持ち運ぶ出前用の箱。
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もう行ってしまうのですか。そんなに焦らなくてもいいじゃないですか。また、嫌なことばかりですよ。それでも行くんですね。わたしは、もうしばらく、ここにいます。
また一人わが耳元を過ぎ行きてこの世とやらへ旅立ちてゆく
■註■短歌○マタヒトリ ワガミミモトヲ スギユキテ コノヨトヤラヘ タビダチテユク
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叔父は、私にだけ、彼の女装趣味を打ち明けた。人付き合いが苦手で、短歌など作っている私に、同じ匂いを嗅ぎ取ったのかも知れない。迷惑な話ではあったが、叔父の話は面白かった。古事記の中で、倭男具那が、熊襲建を殺したときの女装姿、それが彼の究極の理想らしい。最近は、若い友達が出来たらしく、以前のようにメールも来なくなった。
われを欺き身に浴びる悲しみの針千本、祭は女になりて紛れん
■註■短歌○ワレヲアザムキ ミニアビルカナシミノ ハリセンボン マツリハオンナニ ナリテマギレン
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最近のペットショップは見たこともない、いろいろな生き物を売っているのだが…。
ある日ふと甲殻類と成り果てし己が見えておかしかりけり
■註■
短歌○アルヒフト コウカクルイト ナリハテシ オノレガミエテ オカシカリケリ
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この月は誰が齧りし絶倫の猫らが騒ぐ 懐かしタルホ
ぼくのチワワの後頭部に刺さったままの星の欠けらは、夜の散歩の時に、時々青白くほのかに光る。一体どういう加減で光るのか、いろいろと研究してみたのだが、いまもって謎である。
■註■
短歌○コノツキハ タレガカジリシ ゼツリンノ ネコラガサワグ ナツカシ タルホ
・ タルホ=稲垣足穂(1900-77)小説家。『一千一秒物語』『少年愛の美学』など。
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笠智衆みたいには、演じ切れない人生の寂しさが、しみじみ身に沁みる野分の朝。
骨年齢匂うがごとき白玉の君を離れて飲む缶ビール
■註■
短歌○コツネンレイ ニオウガゴトキ シラタマノ キミヲハナレテ ノムカンビール
・ 白玉=白色の美しい玉。女性や子供のたとえに用いる。
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たぶん、これからも。
水槽に眠るアロワナ、ペン先の荒れ感じつつ書き刻む歌
■註■
短歌○スイソウニ ネムルアロワナ ペンサキノ アレカンジツツ カキキザムウタ
・ アロワナ=オステオグロッスム科の淡水産の硬骨魚。
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まだ、時間はある。
立ち飲みは升に二杯と決めおきて屋台に雨のあがるを待てり
■註■
短歌○タチノミハ マスニニハイト キメオキテ ヤタイニアメノ アガルヲマテリ
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朝から解いていた数学の過去問の微分の解の美しさ。
前世に捨て来しものの空白に秋されば咲く荒地野菊よ
■註■
短歌○サキノヨニ ステキシモノノ クウハクニ アキサレバサク アレチノギクヨ
・秋されば=秋になると。
・荒地野菊=南米原産の帰化植物。明治中期に渡来、急速にはびこる。白緑色の花が房状の穂となって咲く。
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もうこれから使うこともないわが分身たち。融通の利かぬ、時代遅れの、ぐずぐずの老いぼれに、いまさら宗旨がえなどできはしない。
古き工具に油を注してしまいおく襤褸雑巾のような明日も
■註■
短歌○フルキコウグニ アブラヲサシテ シマイオク ボロゾウキンノヨウナ アシタモ
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生活というやつは厄介なもんで、志だけで片の付くものではない。高見順にならって言うならば、我慢できなくはない程度の歯痛が、不断に続き、結局はじわじわと精神を蝕んでいくものらしい。
止まりてなすことありや朝未き胃に流し込む冷めた珈琲
■註■
短歌○トドマリテ ナスコトアリヤ アサマダキ イニナガシコム サメタコーヒー
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だまされて食わされた、浅草の唐辛子煎餅、海味館の特製台湾拉麺、CoCo壱番屋の10カラ、そしてカラムーチョ。
火のごときカラムーチョいっぱい頬張れば口の中より空也の化仏
■註■
短歌○ヒノゴトキ カラムーチョ イッパイホオバレバ クチノナカヨリ クウヤノケブツ
・ カラムーチョ=湖池屋の商品。梅干しみたいなお婆ちゃんがヒーヒーいうCMが有名。
・ 空也の化仏=六波羅蜜寺の空也上人の立像は念仏を象徴した小さな阿弥陀仏像六体(化仏)が口から出る形式のものとして有名である。
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生きた証なんてかっこよいものではなかった。
近松論遺言として書き上ぐる腕の黒き蚊は払わざる
■註■
短歌○チカモツロン ユイゴントシテ カキアグル カイナノクロキ カハハラワザル
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M氏の話は本当に面白かった。金払いもよかったし、別れた女に訴えられるまで、誰も彼が詐欺師だったなどとは思いもよらぬことだった。何でも、いかがわしい薬で、ずいぶん儲けたらしかった。久しぶりに会った彼は、以前と比べずいぶん貧相にはなっていたが、また一旗あげるさと、酔ってだれかれかまわずにくだを巻くのであった。
べんべんと昼の酒飲みべんべんと辻褄合わぬ履歴を語る
■註■
短歌○ベンベント ヒルノサケノミ ベンベント ツジツマアワヌ リレキヲカタル
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集団就職で、この町に来て五十五年、われながら真面目によく働いてきたと思います。おかげさまで、息子たちも独立したし。社長はもう少し手伝ってくれと言ってくれているのですが、この会社もそう景気がいいわけではないし。体がまだ動くうちに、故郷に帰って、女房と畑でも耕そうかと思っとるのです。ヤスオカさんはそう言って、いつもの焼酎の水割りをうまそうに飲んだ。
歩留まりの悪き仕事を詰られし少年工も老いて去り行く
■註■
短歌○ブドマリノ ワルキシゴトヲ ナジラレシ ショウネンコウモ オイテサリユク
・ 歩留まり=原料から、実際に製品になった量の比率。
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Y電機工業の本社ビルを出ると、汗が噴き出した。着慣れぬ上着を脱いで、取り敢えずローソンで食事。午後からもう二社回って、夜は小論文の講習会。
前途多望を多忙と書いて青年の企業回りの夏のブレザー
■註■
短歌○ゼントタボウヲ タボウトカイテ セイネンノ キギョウマワリノ ナツノブレザー
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もともと意外性のあるやつだったが、大学でフランス文学やったり、教師になって平凡な家庭を持って、普通のおやじになるとは、思いもよらなかった。
石頭誇りし友も又三郎を読みて寝かする子を持てりけり
■註■
短歌○イシアタマ ホコリシトモモ マタサブロウヲ ヨミテネカスル コヲモテリケリ
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たたなづくビルの向こうは海ならん鉄骨の上で食う塩むすび
建築現場の昼。早食いをして、あとは昼寝。今日は風が心地よい。
■註■
短歌○タタナヅク ビルノムコウハ ウミナラン テッコツノウエデ クウシオムスビ
・ たたなづく=本来は「青垣」にかかる枕詞。ここではビルにかかって、ビルが幾重にも連なっている情景を表している。
・ 海・なら・ん=海だろう。「なら」断定の助動詞「なり」の未然形+推量の助動詞「ん」の終止形。
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また、ケントの昔話がはじまった。酔うと行き着くところは決まってその話だ。たいした不良でもなかったくせに、今は今で、娘に相手にしてもらえない、ただのオヤジのくせに。
夕されば鬼灯鳴らす中年の根性焼きの痕も悲しき
■註■
短歌○ユウサレバ ホオズキナラス チュウネンノ コンジョウヤキノ アトモカナシキ
・ 夕されば=夕方になると。「され」は四段活用「さる」の已然形。「さる(去る)」は時刻や季節を表す言葉につくと、「来る」「なる」の意味になる。「ば」は已然形に接続すると接続助詞順接の確定条件になる。
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私のような平凡な男の人生でも、予期せぬ出来事の連続で、中原中也ではないが、思えば遠くへ来てしまったと、ふとつぶやいてみる真夜中の湯舟。
肩凝りを夜更けの湯舟にほぐしつつわが航海も濃き霧の中
■註■
短歌○カタコリヲ ヨフケノユブネニ ホグシツツ ワガコウカイモ コキキリノナカ
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来るところまで来てしまえば、昨日のことなど、最早気にしてはいられないし、明日がどうなろうと知ったことではない。
知らぬ間に知らぬ私が現れて私のボトル飲み干して行く
■註■
短歌○シラヌマニ シラヌワタシガ アレワレテ ワタシノボトル ノミホシテユク
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ヘルメット被って、竹竿もって、勇敢に、突撃していったお兄さん。もうその話を自慢げに語るのはやめてください。
ひとしきり流行りし歌の変調の友よ 何処に渡世をなす乎
■註■
短歌○ヒトシキリ ハヤリシウタノ ヘンチョウノ トモヨイズコニ トセイヲナスヤ
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F君、きみが不慮の事故で死んでからもう三年がたとうとしています。梅雨晴れの午後、僕は久しぶりに近所の釣り堀に来ています。さっきから、なぜか僕の竿にだけ魚があたります。
死んだおまえに殴られた借り返せずにおいてけ堀で釣り糸たれて
■註■
短歌○シンダオマエニ ナグラレタカリ カエセズニ オイテケボリデ ツリイトタレテ
・ おいてけ堀=この堀で魚を釣ると、置いてけ、置いてけという声がして、全部返すまでやまないという。ここでは、後に残されるという意味もかかっている。
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ゆくりなくわが胸つくは何ならむ汝にもらいし本売りに行く
別だん金に困っていたわけでもなかった。ただ、部屋にそいつのあることが、私の心を騒立てた。彼が私に形見として残した、象徴派の詩人の古い全集は、私が思ったより高く売れた。私はその金で、岩手のひなびた温泉につかり、きざだった彼のことを一晩偲んだ。
■註■
短歌○ユクリナク ワガムネツクハ ナニナラン ナレニモライシ ホンウリニユク
・ ゆくりなく=思いがけなく。突然に。形容詞「ゆくりなし」の連用形。
・ 何ならむ=何なのだろうか。代名詞「何」+断定の助動詞「なり」未然形+推量の助動詞「む」の終止形。
・ 汝(なれ)=あなた。
・ もらいし本=もらった本。「し」は過去の助動詞「き」の連体形。
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プロジェクトXという番組を初めて見た。残業あとに同僚と飲んで、酔って帰ってきた土曜日の深夜の再放送。そこには、私より一回り上の、誠実な男たちの夢の骸が詰まっていた。虚業に身をやつす私には所詮縁のない世界だった。それより、何よりあの地上の星とかいう辛気くさい歌を何とかして欲しかった。
人として何をなせしや暑き夜を酔い醒めの体持て余しいる
■註■
短歌○ヒトトシテ ナニヲナセシヤ アツキヨヲ ヨイザメノカラダ モテアマシイル
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人類が滅びた後の地球を思うとこころが落ち着く。
物は皆眠りに就いて惑星の遠い光芒 風を待つ種子
■註■
短歌○モノハミナ ネムリニツイテ ワクセイノ トオイコウボウ カゼヲマツシュシ
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あなたの前世のことを問われても、わたしの水晶玉には、きっと何も浮かんでは来ません。あなたが拒絶したあなたの物語に決着を付けるまではね。
闇を抱き眠る胎児の臍帯が宇宙のどこかと結ばれている
■註■
短歌○ヤミヲダキ ネムルタイジノ サイタイガ ソラノドコカト ムスバレテイル
・ 臍帯=(さいたい)へそのお
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思い切り泣くなんて、芝居じみたこと出来やしない。思い切り笑うなんて、空々しくてごめんだ。一夜のゴミを掃き出した繁華街の朝の静けさが、オレにはお似合いだ。
闇の底から山蟻の列這い出して夢の骸を搬んで行った
■註■
短歌○ヤミノソコカラ ヤマアリノレツ ハイダシテ ユメノムクロヲ ハコンデイッタ
・ 骸=なきがら。残骸。
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激しい頭痛がまた始まった。こうなるともうどうしようもない。三年くらい前から定期的にそれはやってくる。原因は不明。医者の薬など、屁の役にも立たず、嵐が過ぎ去るのをじっと待つ。頭の中を闇がドクドクと音を立て、際限なく膨張する。それが頂点に達したと思う瞬間、一種恍惚感を伴い、海が引くようにそれは終わる。そうして、空っぽになった頭の中を、端正な姿をしたカニが一匹、ハサミを静かに降りながら横切っていく。
わが奥の暗黒宇宙に蟹がいて横這うときの音のかそけさ
■註■
短歌○ワガオクノ アンコクウチュウニ カニガイテ ヨコバウトキノ オトノカソケサ
・ 暗黒宇宙=光りを放出しない質量を持った闇の広がり。
・ かそけさ=かすかなようす。
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方舟に乗れぬわれらに蒲公英の種子ばかり飛ぶ野を行きにけり
タンポポの綿毛が一面に舞うなか、選ばれざるわれらが行く荒野。旧約聖書の「創世記」によれば、人類の堕落を怒って神が起こした大洪水は、地球全土におよび、ノアが神の命令でつっくた方舟に乗っていたもののみ、生き延びたという。はたしてわれらの時代の終末に氾濫は地を覆い尽くすのだろうか。
■註■
短歌○ハコブネニ ノレヌワレラニ タンポポノ シュシバカリトブ ノヲユキニケリ
・ 方舟=ノアの箱船
・ …に・けり=完了の助動詞「ぬ」連用形+詠嘆の助動詞「けり」終止形 ~たことだ
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